二元性という檻
先日、過去世のヒプノセラピーセッションを受けられた方の第一声が「そういうことですか。だからなんですね。」でした。
また別の方は、カウンセリングで心と意識の仕組みをお話しさせて頂いていると、
「すごく腑に落ちます。ずっと前に進みたいのに進めないのはなぜだろうと思っていました。」と、話してくださいました。
この混沌とした世界で生きてきた私たちが、背負ってきた多くのものを認識して、そこからひとつずつ手を離すと選択し、そこから解放されていく姿は、本来の自分自身へと戻っていくというその道のりに、例外なく全ての人がいることを教えてくれます。
そして、わたしが空(くう・から)になりその道を空けて、もともとそこに在った満ち足りた真理につかり、根を張って同調しているほどに、セッションを体験する方がより自由に、そしてより深い理解に一歩踏み出すことも感じています。
この社会は二元性が土台ですが、真理はいつでも一元です。それらは真逆です。
自我意識(肉体意識)の性質は、恐れのため、平安を求めます。そのために、その過程におけるすべての善悪にとらわれます。
そのためジャッヂをします。むしろジャッヂは自我にとっては無くてはならないものであり、かかせません。
そして物足りなさを感じているので、埋めなさい。満たしなさい。得なさい。と、社会ではそもそもそれが土台であったりします。
わたしたちは、足りていないのだから、と。未熟なのだから、と。
自我は、この社会は、わたしたちに教えます。
ー覚えていなさい。そして信念を持って生きなさい。
悟りの道で、覚者は伝えてきました。
-すべてを忘れなさい。そして、あらゆる信念を脇に置きなさい。
生きづらい。その理由が、自我の働きによってこの世界で得てきた多くのものが重いからだと、そう理解する人がどれくらいいるだろう。
生きづらさや、私たちの住む自我が土台となったこの世界に違和感を感じるというのは、魂にとって、人類にとって想像以上に大きな転機であることに、じつは贈り物であることに、気付く人がどれくらいいるだろう。
真理からみた敏感さや鋭敏さ、繊細さや共感力は、そのためにあると言っても過言ではなく、その性質は苦しむためにあるのではないことは明確です。
それは、【得るー背負い続ける】から【おろすー手離す】への扉が差し出されます。
求めるという自我のみかけの働きに、私たちはみかけ以上のものを取り込み、突き動かされ翻弄されます。
もちろん、求めるというのは悪いことであろうはずがなく、この世界に生まれた誰しもが持つ自我の働きに従順し、順応し、はじめから逆らう必要も無ければ、逆らえる者も、気付く者もいないはずです。
むしろこの社会は、得なさいと私たちをたたみかけます。
それが良いことだど、そうしないといけないのだと。それが自我のスタンダードで、それが自我の世界で、この社会のスタンダードだから。
でも、本当にわたしたちが真に求める価値のあるものは、その見かけの下にある隠れたもともとの自己の本質。それなのだと思います。
自我を持つ以前の私たちの姿であり、性質であり、そこにひろがっているものです。
そこを見い出していくことが、あらゆる見かけの人間的体験から超越した世界に触れることを可能とします。
本当の世界はこんなにも平安で、安堵と豊かさと調和と奇跡がひろがっている。
それは昔からそこにあったのだけれど、それを見ることが可能な状態ではなかった。のです。
感謝をこめて
MARI
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