【欠如】から始まる自我(エゴ)の世界②
前回、私たちは人類が【欠如】をベースにした世界で体験したものを持ち続け、採用し続け、引き継ぎ、いまもそれ越しに世界を見て現実としていると書きました。
この物質世界は、私たちが肉体を持って生まれた時よりもっとずっと前、過去という概念を採用して言うのなら、大昔から丸っと【欠如】が土台の世界なのです。
それがエゴの性質であるがゆえに、です。
【欠如】はわたしたちに何をもたらすのでしょうか。わたしたちに、何を見させて、何を聞かせて、何を体験させるのでしょうか。
欠如は、欠けて足りないこと-ですので、わたしたちは根底で自分自身のことを、欠けていて、何か足りていない、不足のある存在だと感じているということです。
それはつまりは、完全ではない。完璧ではない。劣っている。満たされていない。じゅうぶんではない。損なっている。ゆえに未完成で不具合を持つ存在だ。
これが、わたしたちの持ち物である自我(エゴ)のエネルギーということです。
物質という目に見えるものを頼り、優先する社会で、自分自身を肉体そのものであるとし眺めたとき、いつしか死を迎え、わたしは消えて無くなってしまうという解釈を多くの人が持っています。
それは、自分自身が死というものによって消える、完璧な存在ではないというエゴの存在の脆弱さ、根底に抱える欠如感を物語っています。そしてそれを抱えているのは、肉体と同じ固有の「わたし」というマインドの感情です。
つまりは、エゴは固有の肉体・マインド=有限な生命であり、それは限界がありいつかは絶たれるという【恐れ】を、無意識下では肉体を持つ全員が抱えているということです。
自我(エゴ)は、未完成、未熟さ、不完全さといった欠如を自覚しているがゆえに恐れているわけです。
それによって地球でどんな体験をするのか。無意識下に居座る【恐れ】は、私たちに何をもたらすのか。
エゴは、自分は欠けている・足りていないと恐れていることで、何かを得なければいけないと思い込んでいます。
求める対象は様々ですが、物やお金やパートーナー、権威権力など、それらを持つことで自分の持つ恐れを満たそうとします。
求める対象が国という単になると、それは戦争へと発展していく可能性を持ちます。
もしかすると求めているのは他国ではなく、それを奪うことで得られる何かや権力なのかもしれませんが、どちらにしろ、その対象を手に入れることで、エゴは何かを得られると感じているのです。
自分に欠けているものをなんらかで埋めようとし、埋めることで自分自身が満たされると、そう信じているのです。
しかしわたしたちのエゴは、完全に満たされることはありません。
沢山のお金を持つ人は、このお金が無くなったらどうしようという不安に駆られるといいます。
パートナーがいても、満足しなくなり、不平不満を感じたり、別な相手に惹かれるということもあるかもしれません。
たばこやお酒やパートナー買い物など、欲する対象が極度に偏れば依存することもあるかもしれません。
なにより欠如感は、自分は完璧ではない未完成で不具合を持つ存在だと無意識下に根を張っているので、誤魔化したり、装ったりすることは可能です が、根底では自分という存在を肯定することができません。
自分自身を肯定できず、それでいて恐れている。
肯定できないからこそ恐れているのです。
続きます。
感謝をこめて
MARI
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