恐れから愛へ-非二元の実相

不快を感じることーそれが私たちの最大の恐れ

快を求め不快を回避して常に防御する自我

 一般的にストレスを感じるというのは現実に抵抗を感じ、嫌悪や恐れや苦痛といった不快を感じるということです。

 肉体を持ち、感覚を持ち、五官(視覚・聴覚・皮膚感覚・味覚・嗅覚)を持つ私たちは、常に心身の快と不快の支配下にあるといえます。意図せずとも、自身に痛みを伴う経験を避けなければ、自身の存在が危ぶまれるからに他ならないからです。

 しかし、私たちの肉体と心を守るために必要な機能が、経験を重ねていくごとに自由をも奪っていくことも事実なのです。

 例えば新たなことに挑戦したいと感じても、過去の実体験や見聞きした経験というデータを思考や無意識から引っ張ってきて、「それはやめておいたほうが良い」や「無謀だろうな」「ちょっと怖い」「あり得ない」「馬鹿げてる」「駄目でしょう」「わたしには無理」と思い判断したり裁いたりしてしまうのです。過去のデータは単純なひとつの過去の経験としてだけではなく、脅威として目の前に立ちはだかり、私たちの行動や挑戦にストップをかけます。動きたい、やってみたい、だけど怖くてできない。またはこうするのが普通、当たり前と思いこみ、別の選択をすることが不可能になっていくのです。

 そしてそれは知らない間に観念として存在しているため、他者に対しても同様に、「あれは過去にこういうことがあったからダメ」「これをしてはダメ」「きっとああなるからそれはやめて欲しい」「なんでそんなことをしようとするの」と気付かないうちに相手の自由をも奪ってしまいます。

 先述した通り、それが自我(肉体と心)の働きで自我はしっかりと自分の仕事をしているともいえます。

 しかし、私たちの本質は自我━エゴではありません。肉体と心(マインド)だけの存在ではないのです。

 自我は過去を教訓に自我自身を守るために、自我自身が必要と思いこんでいる過去のデータを貴重なものとしてそれを蓄積し自我自身を守り続けています。その根本は潜在意識にあり無意識にどんどん蓄積されていきます。

 そして自分を自分以外(他者・社会・出来事)から守るために、蓄積したデータによって身動きがとれなくなっていくのです。その中には自分の反応からそれを「性格」とカテゴライズしてきたものや、自身の環境由来のものから、社会に生きる私たちが何世代にもわたって共通して持ち続けているものまで様々あるのです。

ホログラムなこの世界

現実世界はスクリーンにすぎない

 わたしたちが現実と呼んでいるこの世界は、個々や集団の潜在意識の中身が投影されたものです。つまり、潜在意識にあるものがもととなり映画のフィルムのように現実世界というスクリーンに、様々な形となって映し出されていきます。

 心にとって受け入れがたい出来事やショックな出来事、大切な人に理解してもらえず悲しかったり悔しかったり恐怖だったりといった、感じるのに抵抗を覚える一般的にネガティブと呼ばれる感情は、その心に備わった自動的な制御反応が働きます。自身が気付かないほど瞬間的に「感じる・取り入れる」こと自体を拒否して、無かった事、もしくは開かない蓋、開けたくない蓋をし、未消化な感情として潜在意識の中にとどまっています。

 潜在意識にとどまり固着した、その未消化な「感情」は、自身の人生のストーリーのなかでしばしばテーマとなって本人の現実世界に様々な形で投影されていきます。

 それは、ありのまま・あるがままのはずの現実が、「個人の過去の経験から生まれた感情・出来上がった観念、信念」というフィルターごしに現実というスクリーンに映し出すのです。

 似たような「感情」や「観念」を発生させる出来事を現実として映し出し、その感情と観念を再び自分自身が体験していくのです。

本質なる自己

体でも心でもなく

 私たちは心と体がある限り、何度も大小様々な不快を感じながら生きていくでしょう。そしてその不快から学び、次こそは回避するべく、蓋をされた感情と共に無意識に握りしめ持ち続けた信念・観念・思い込み━それらに気付き手離したとき、残るものは何なのでしょう。

 そこにあるのが本質なる自己とよばれる本当の自分です。自我━エゴと称する体や(自分を自分と思っている小さな自分であり)過去の学びに反応する心、そのどちらにも属することの無い本当の自分自身がおのずと顔を覗かせてきます。

 そもそも信念・観念とは━。それは肉体と心(マインド)を持った私たちがこの社会に馴染んで生きていくために、必要に迫られて意識なく身につけてきたものがその土台となっているといえます。親しみ深いこの心と体を守ることは、この世界で生きていくためには無くてはならない必要不可欠なものです。

 しかしこの心と体は、そもそもが不快を感じる機能を備えたシステムです。いわば私たち人間に生まれながらに備わっている基本装備です。その装備を伴ってこの社会を歩いているので当然苦悩は訪れるのです。環境が過酷な人ほど、そして長く歩けば歩くほど、「子ども」「姉」「妻」「母」といったこの社会における肩書きが増えるほどに。また感覚が鋭敏であればあるほど、私たちは不快と不快からくる防御と信念・観念を次々に蓄積していったあげく、この世界で自分の自由がどんどん奪われていく現状に、「生きにくさ」を感じるのです。

 多くは考察するすべも、その理由にも気付くことなく、「どうしたら良いか分からない。」「にっちもさっちもいかない。」「やる気がでない。」「もう嫌だ。」などを抱えていきます。

 自我が優秀なために、もしくは過剰に自我が働くために、あらゆるものを防御の対象として察知し教えてくれるのです。これらは例えると空だったコップに、不快由来の感情と共に、不快回避のための信念・観念という水が社会を歩いているうちに気付かないうちに目一杯になり溢れそうになっている状態といえるかもしれません。

 そうなったら、私たちはコップから水を出していけばいいのです。それは自我にとっては大きな転機となります。それは自由を取り戻すことと引き換えに、まるで今まで社会に馴染んでいくために、そして自分自身を守るために培い学んできたものから手を放していくことのように感じられ、恐れから抵抗を抱きます。ですが手を放さないと見つけることができないのです。

 日常で感じた不快の「根っこ」となっている感情を探し癒しながら、自分の中に積み上がった信念・観念を見つけていく。そしてそれを手放していくことで自我の存在が浮き彫りになっていきます。決して簡単なことでもなければ、長年共にいた自我の様々な抵抗を感じることでしょう。それでも私たちは、自我が本当の自分ではないことを、心のずっと奥、自我意識では認識のできない場所で誰もが知っているために、そこに還るために本質の自分に戻るために、ずっと歩いてきた道を戻り始めるのです。自我という鎧を脱ぎながら。

私たちはこの世界をありのままに見ることはできない 

フィルターが外れた世界を望む

 感情を癒し、隠れていた信念・観念が現れるままに手に取ってから降ろしてていくうちに、浮き彫りになってくる自我を眺めていると、それは本質なる自己を見つけるために存在していたのだということが分かります。自分の一部でもあったそれは、決して疎まれ嫌われる存在でもなかったのだということです。信念・観念を作り上げてきたその自我が、それらを降ろしていくという意思のもとでは、欠かせないパートナーに様変わりしていきます。

 そして他者、つまり社会全体に対しても同じことを感じるのです。

 不快を感じた経験を重ねたことから、人と関わるのが嫌になり、自分が嫌になり、社会が嫌になり…それで終わりではないということです。言うならばそこからだということです。

 癒されない感情とそれに付随する信念・観念がある限り、それは目に見えない幾多の心のフィルターとなり、私たちはこの世界をありのままに見るということができていません。それが自我(肉体と心)の最初の第一の機能なのです。

 そういった意味でも、私たちは「心と体だけの存在」でしかないという枠組みで位置付け、縛り続けている限り、そこに限界を感じるのは当然かもしれないと納得がいきます。そして多くの人が、社会全体が、そこでストップをして出口を見出せずにいるという事実に理解を示すことも出来ます。

 生きている間、つまり五官を伴う肉体がある限りは、常に完全なる本質の自分でとどまり続けることは難しいといわれています。自我な自分と本質を認識する自分とをいったりきたりし、徐々に本質にとどまる時間が長くなっていきます。

 本質の自分とは、知る、分かる、触れる、見る、感じる、くつろぐ、滞在する、沈黙、それ、意識そのもの、今ここ、ありのまま、在る、愛、完全、完璧、無限といった言葉で表現することができます。

 この、理不尽で不平等で、あらゆる感情・観念・苦悩・抵抗・摩擦・攻撃と防御を生み繰り返しているこの世界が、完全で完璧で愛しかない無限に抱きかかえられているという一端に触れた時、私たちはようやくありのままの世界を見始めることができるのです。

 その世界は無限なる愛に満ちあふれています。すべてが輝きをはなち、あらゆるものが完全で完璧でひとつの間違いも存在していないことを知ります。そしてそれは感動と喜びと感謝と充足のシャワーのなかでただただ満たされます。