私の過去生

 最初の過去生セッションでは、私はワンピースを着て、栗色の髪の毛をふたつのおさげにして三つ編みに結んでいる、肌の白い外国の4歳ほどの小さな女の子でした。

 緑あふれる自然の多い場所で、丸太でできたログハウスのようなところに、お父さんとお母さんと3人で住んでいます。

 最初の場面はダイニングで家族で朝食をとっていました。お父さんは西部劇にでてくるようなハットをかぶっていて、体格が良く顔には髭が生えていて、私は少し近づきがたい印象を抱いていました。でも時折り優しい表情を見せるお父さんのようでした。お母さんも家の中でまた違った帽子をかぶっていて、ピリピリと険しい顔をしながらお茶を入れています。私はお母さんのことを少し恐いと感じているようでした。

 次の場面にうつると、私はお父さんが見守る中、外で馬に乗っています。それは家の敷地内で、自分の家の馬だということが分かります。少し楽しいと感じていました。ふっと馬にまたがりながら、お父さんが立っているほうに目を向けると、大人の男性と難しそうな顔をしながら話しをしていました。

 次の場面は、夜中に目が覚め、リビングにある大きなロッキングチェアに座っている私がいました。目の前には暖炉があります。お父さんもお母さんも居ません。私は、少しの寂しさと怖さを感じています。父母は私が寝静まるのを待ってから、銃を持って外へ出て行っていたようでした。

 次の場面はまた別の日の夜です。私は自分の部屋でひとりベッドにいます。お母さんは「寝る時間だから早く寝なさい。」と怖い顔で言い残し部屋を出ていきました。私はとても寂しい思いを感じていました。

 とうとう最後━亡くなる場面にうつり、生前を振り返ったとき、この時の状況が瞬時に分かります。

 亡くなったのは年老いた頃。朝、おうちでロッキングチェアに座りながら厚手ですがくたびれたブランケットを膝に置き、本を読みながら静かに老衰らしき姿で亡くなっています。

 小さい頃、父母は依頼をうけ、何度となく夜中に家から銃を持ち出し外へ行き、人を銃殺し金銭を授受していたことが分かります。私が馬に乗っているときに、お父さんが話していた相手はそのときの依頼人でした。決行する日の夜は、お母さんは私に早く寝るよう促すのです。

 そしてあの日、父母は帰ってきませんでした。銃殺しに行った先で亡くなり、もう二度と帰ることはなかったのです。そしてその出来事は町中に伝わり、私は周囲から非難を受け、後ろ指をさされていると感じるようになり、それからしばらくして家から外に出ることがなくなってしまったのでした。

 亡くなった私、両親を幼くして失った女の子だったその老女は、その時を振り返り、「仕方がない」と思っています。

 そして、取り残されていた感情、消化しきれずに眠ったままだった感情が、「この人生で何もできなかった。」「外の世界がどうなっているのか分からないままだった。」「つまらなかった。」「さみしかった。」「誰もいなくて人恋しかった。」でした。

 私はセッションの最後に、この過去世と出逢えたことに感謝し、取り残されていた感情に耳を傾け、十分に受け入れ、想いを一緒に感じました。そしてお別れを告げ、過去世の人生によって私に付随していた感情・観念エネルギーと共に、上空へ見送ったのです。


※※※※※※※※※※


 こうした、この過去生の人生の中で取り残されていた感情から生まれていた観念として、振り返ると私の場合は次のようなものが挙げられます。

 ●人生で何も成し遂げることが出来なかったと感じていることによる自己の存在価値への疑問、虚無感。

 ●外の世界を知ることが叶わなかったと感じていることによる=社会や他者に対する恐れ。怖さ。憧れ。

「自分は外(=社会・表舞台)には出られない。出てはいけない。出ると他者から非難を受ける。」といった思い込み。

また、他者との交流が著しく乏しかったことによる、他者や社会とのコミュニケーションに対する消極性、恐れなど。

 ●「つまらなかった・さみしかった・人恋しかった」という感情からくる孤独感。「なぜか分からないけれどいつも孤独を感じる。」「誰かと一緒に居ても一人のように感じる。」「家族やパートナーなど大切な人との心の繋がりを感じにくい。」


 過去生の場合は、こうした取り残された感情から生まれた観念が、魂にエネルギーとして残り、次の肉体また次の肉体へと持ち越され、今生へ続いていきます。

 この場合でいうと、上にあげたような観念が、私が誕生したときにすでに持っていた感情・観念エネルギーであり、その観念を通して今生はスタートし生きていたということです。
 それはまさに、見覚えのない観念が誕生の前からフィルターとして私に織り込まれているため、まるで自分の性格のようにしか捉えることができないのです。

 実際、幼少期から今思うと虚無感のようなものがあり、毎日がぼんやりと薄暗いため、未来にもなんとなく希望がもてなかったり。自分と比べて周囲の人は明るく楽しく生きているように感じられ羨ましく思えました。そのため自己肯定感は低く、ありのままの自分ではその場に居れず、他者を真似てみたり、なりたい理想の自分を偽って装って振舞ってみたり。迷ったり逆に開きなおったりと、ブレて揺れて、戸惑ったりしながら、なんとかしっくりくる自分をみつけて、それを「わたし」と呼んでいたような気がします。そして他者の視線(感情・気持ち)にとても敏感だったため、相手の不快が自分の不快となり、それによって自分自身の身動きがとれないようにも感じていました。
 また、なぜか「私は誰からも受け入れてもらえない。」と思っていました。

 人生ってなんだろう。自分ってなんだろう。 人ってなんだろう。感情って何だろう。人の気持ちってなんなんだろう。正しい選択ってなんだろう。どこにあるんだろう。という気持ちを漠然と抱えつつ、歳を重ねるうちに徐々にうまく渡る方法を学び、表面上は社会にとても馴染んでいたように思います。大人になり、私自身順調でしたし、周囲もそう思っていたと思います。

 このときの過去生を受けた当時の頃を振り返ると、結婚して子どもが生まれ、引っ越しと子育てのためにそれまで勤めていた仕事を辞め、慣れない町で家にいる時間が増えたことで、社会との繋がりも以前に比べると希薄になっていました。
 この状況・環境からなる似たような心境を、体(五官)が捉えたことで、もともと私の魂に根強くあった、この過去生の感情・観念エネルギーが、その時私が手離すに最たる観念として自分の中から選ばれたのだと納得できます。
 それと共に、幼少期から自分だと思っていたその「わたし」は、魂が過去から持ってきていた、付随されていた「わたし」だったと知ることができた、最初のストーリーでもありました。
  

2回目の過去生セッション。

つづく…。